親ばか子育て奮闘記

子供のこと、自分のこと、独自の目線で綴ります

私が変顔で旦那に感謝を伝える理由

こんにちは。

ふーみんです。

 

 

私小さい頃から家族に「ありがとう」を言う習慣がなかったんです。

 

外で友達には言えるけど、家族には言わなかった。

 

小学生の時母の日に「お母さんいつもありがとう。迷惑ばかりかけてごめんね」と手紙を書いたのは覚えていますが、日常で「ありがとう」を家族に伝えることはあまりありませんでした。

 

 

 

小学生の頃から両親が不仲だったので、喧嘩しているのをよく見ていました。

(それ以前から不仲だったのかもしれませんが記憶にありません)

 

 

母が実家に帰ったこともあるし、泣いているのも見ました。

 

母と兄と私の3人で仲良く喋っていても、父が話題に入ってくることはない。

 

でもそんなのはどこの家でも起きていることだと思っていました。

 

 

父は私が中学1年生の頃に仕事を辞めて、(リストラなのか自主退職なのかわかりません)家にいることが増えました。

家で仕事をしていたのか、仕事を探しているところだったのかもわかりませんでした。

 

母は平日の事務のパートに加え、土日もスーパーのバイトを始めたので、父はリストラにあったのか?だからお金がないのか?と思いながらも聞けない日々が続きました。

 

中学2年生の時に一軒家を買ったので、「念願の一軒家だ!やったー!お母さんとお父さんの仲は悪くないのかも!うちは貧乏じゃないのかも!」

と呑気に思っていました。

 

ですが、一軒家に引っ越すと益々両親は仲が悪くなり、ついには寝室も別になりました。

 

一軒家を買ってからも父の仕事のことは聞けず、相変わらず母はパートとバイトを掛け持ち。

 

 

 

ある日家に一通のFAXが届きました。

 

債務整理」という字を見て、私は信じたくないと思いましたが、どうやらうちの家はローンが払えなくなったようです。

 

私たちはどうなってしまうのか…

不安で仕方がありませんでした。

 

でも母はいつも通りに過ごしていました。

 

だから、私は大丈夫なのかも。とまた呑気に思ってしまいました。

 

 

私が高校1年生の時、父はうつ病になり(いつから患っていたかはわかりません)、自殺をはかりました。

 

多分私だけが見たと思いますが、父の書斎に遺書もありました。

 

母や兄や私、友達に一人一人書いてありました。

 

 

数日間帰ってこない父。

 

書斎には遺書。

 

信じたくないけど、それしかない…

 

 

遺書を見たことを母にも兄にも言えずにいると、夜警察から電話がかかってきました。

 

母が慌てて出て行き、帰ってきた時にはボロボロになった父が一緒でした。

 

どうやって自殺をはかったかはわかりません。

 

気力がなく見ているのも苦しくなるような、今までに見たことがない父の姿でした。

 

そんな時にも兄と私は上手く言葉がかけられない。

 

母は「お父さんは病気やから家族みんなで頑張っていこう」と言いました。

 

 

でもそれから1年もしないうちに、離婚をすると告げられました。

 

当時、うつ病のことを全く理解していなかった私たち。

 

離婚をせずにもっと父に寄り添ってあげればよかったなと、後悔したこともあります。

 

 

 

離婚の理由は、母が昔から父を嫌いだった。許せなかった。から。

 

結婚当初は優しかった父は、しばらくすると母に全く優しくなくなったそうです。

 

普段は無口な父は喧嘩をするとこれでもかというぐらいの大声を出して母を追い込んでいました。

 

 

私たち子供には温厚だった父。

怒られたこともあまり記憶にありません。

 

そう、良いように言えば温厚なのですが、それは育児にあまり参加してなかった証拠とも言えます。

 

母1人でほとんど全てのことを背負っていたのかなと。

 

 

両親が喧嘩することなんて、どこの家にもあることだと思っていたので、まさか両親が離婚するなんて思っていませんでした。

 

離婚すると告げられた時はすごく泣きました。

 

でも、母を楽にしてあげたい。

 

そんな気持ちが強くなり、離婚を受け入れることにしました。

 

離婚すると決めてからは、母と兄と3人で暮らすマンションを決めなければなりません。

 

母と2人で家を見に行くのは楽しかったし、新しい生活に少しワクワクもしてきました。

 

ローンが払えなくなった家は売りに出すので、父も私たちも引っ越すことになりました。

 

引越し当日、父が私たちよりも先に家を出たのですが、「じゃあまたね」だけの挨拶でした。

 

寂しさと悲しさと感謝と、でも永遠の別れじゃない、沢山の感情が入り混じった「じゃあまたね」。

 

母は父に電話で「色々ありがとう」と言っていました。

 

少し泣いていたと思います。

 

 

母と兄と3人の暮らしは特に不自由はなく、兄が就職して一人暮らしをするまで続きました。

 

兄が就職して母と2人暮らしになってから、母との時間を大切にしなきゃ。母に寂しい思いをさせないように。という想いが強くなりました。

 

 

私が結婚のため家を出る時、母が「苦労かけたけど…」と泣いたのですが、私は全く苦労なんてかけられていません。

 

父と母が離婚したのは私の人生の中で1番悲しい出来事だったけど、母は私と兄を大切に育ててくれました。

 

そのおかげで私は今とても幸せに暮らせています。

 

 

父は引っ越した先でも自殺をはかったのですが…(やはりうつ病が治ってませんでした)

田舎の両親や兄弟のところで静養した方がいいということになり、今は九州に住んでいます。

 

兄と私で1年に1回か2年に1回会いに行くことが続き、私は仕事で疲れた時にも父に会いに行きました。

 

今では病気を克服したようで、しっかりと働いています。

 

私の娘にも兄の息子にも毎月絵本をプレゼントしてくれる優しいおじいちゃんになりました。

 

 

 

両親が不仲だったため「ありがとう」と、声を掛け合っている姿は見たことがありません。

 

だから私も家族に「ありがとう」という習慣がなかったのかなと思います。

 

でも家族だからこそ、1番大切な人だからこそ、日頃から感謝を伝えていきたいと思っています。

 

 

だけどやっぱり「ありがとう」は照れ臭いんです。

 

慣れていないから。

 

だから私は今日も旦那には変顔で「ありがとう」と言います。

 

笑って欲しいから。

 

1番大切な人には笑ってて欲しいから。

 

そして、お父さんお母さんが仲良く笑っている姿を娘にも沢山見せていきたいと思います。

 

 

では、また。